昭和41年09月24日 夜の御理解



 どんなに良いお芝居を観ても、面白い映画を見ても、これはいい映画だなぁと。これは良いお芝居だったなと、こうそれを決定付けるものは幕切れである。また映画で言うなら、ラストシーンなんです。本当にまたええなぁええお芝居だなぁと、こう思うておってもです。幕切れが尻切れトンボのような感じであったら。そのラストシーンがどうも良かったと、最後にその言う様に思うもんで無からなければ、良い映画であったとか、良いお芝居であったとかと言わんだろう。ね。
 いわゆる物足りない、何かこの嫌味が疲れが残るような感じがする。何でもその同じこと。信心もそこんところが大事、ね。元旦を大事にさせてもらうなら、やはり大晦日を、大事にさせてもらわなければならない様に。朝の気分を大切にするなら、やはり、休ませて頂く時も、有難いというものでなからなければ駄目だ。ね。いわゆる朝の清々しさ、昼の忙しさ夜の有難さと、言った様なものが、私は一貫しておかなければいけない。まして、例えば御造営のことなどにも、今家族を挙げて家族を挙げてというと。
 そのようなものは勿論、言うに及ばずだけれども、椛目の信者一同が一生懸命、まぁ言うならば、素晴らしい神様の御演出のまにまに、あぁしたおかげを頂いておる。そこに立ちはだからして頂いておる。言うなら俳優である役者である、私達なのである。そこの演技いかんによって、それがまた素晴らしいことであったと。何時の世までもそれが残せる話。ね。言う様に私は持っていかねばいけないとこう思うのです。
 私は今日お風呂頂いきよる時に、ふっと私はね、あのご神前では不思議に、また御結界のおる時には不思議に、そういう不安は起こらないです。けれども下がっておる時やら楽な時。例えばほんならお風呂やら入っておる時ですたい。ずうっと自分の心の中にかすめるもの、ね。今のままで大丈夫だろうか。そんな不安がちょっと私の心を横切る。そうしたら神様は直ぐ私に、お知らせを下さるのにね。もう目の前一面が蕎麦の花の、花盛りという様なそば畑を一面にこう頂く。
 私はそれでぱっと自分の心を、ま取り直させてもらうと同時に、私の心の中に感じたこと。ね。もうおかげもそばだと。もうお芝居で言うなら、幕切れに近いところなんです。いわゆるラストシーンなんです。ここを大事にしここをいわば熱演しなかったら、この御造営劇というのは、いわば後味の悪いつまらん。皆が一生懸命になられたのが、ある意味で水の泡になると言った様な事に帰してしまうと私は、こう思うておる。もう神様はおかげを下さろうとしておる。
 しかも最後の仕上げを、神様は、勿論信心の仕上げを待っておいでられる。そんな感じ。久留米の初代は、ね。あぁして大変なゴヒレイを頂かれたけれども、御用御用で、御用に打ち込まれるもんですから、お金は何時も足りない。足りないという状態であった。それがはっきりお伝記に残っておるです。ね。来る年も来る年も、やはり利払いで終わられたということ。
 ですからそれこそ先生辺りの大徳を受けられた方の事でございますから、御結界に奉仕をしておられたり、御神前におられる時などは、それこそ微動だもびくともなさらなかった事であろうとこう思う。ところがやはり勝手に下がられると、ふっとその事が、心の中に今日も私が、風呂の中で感じたような不安を、又はいうなら愚痴のようなものが、心の中に起こられたのである。元旦の御直会を頂いておられる。
 そしてお屠蘇をこう頂かれて手に持たれて、はぁ本当に今年もまた利払いで一年終わらんならんかなとこう思われた。まぁあんまりそのそうですね、普通から言うたら働いても働いても、それが利払い。元金のほうはいっちょん減らんというのはやっぱ、楽しみが無いですよ。おかげで今年は幾ら減った。もう後幾らと言うなら楽しみがあるけれども。来る年も来る年もやっぱり利払いばっかり。ね。はぁ今年もまた利払いで終わらんならんかと、こう思われた時に幽冥から声があったと、ご伝記には書いてあります。
 しかもそれは二代金光様、四神様のお声で、はっきり八百俵の徳を授けるという、お声であったと。時に先生の心の中に奮い立つものがあった。よし神様が下さるなら頂くぞと言うその勢いがですね。今までの信心にも一層引き締められ、一層お役に立たせてもらう、御用に立たせてもらう。四神様のお徳を、九州中の出社関係に説いて回られたということである。長年の間それこそ利払いだけで、元金にと言うことがどうにも出来なかったのが、一年の間に片が付いたということ。ね。
 勿論八百俵の徳を授けるとこう仰った。当時、ちょうど八千円の借金がおありになった。当時のお米が一俵が十円と言う時代である。成程八百俵の徳を受ければ、八千円の借金払いが出来る。それが二月、三月もう一年の時には一年目には、すっかりそれが支払われてしまったと言う様なおかげを受けておられる。同時にあの、久留米のそうそうたるご信者さん方は、その当時出来られたという事である。ね。
 人間の知恵は力及ばんものがある。もう神様がおかげ下さると言うだんになったら、あっという間である。それは椛目のそもそもの時分ば、いっちょ思うてみたが良い。もうそれこそあっという間であった。とてもとても人間の知恵やら力で出来ることじゃなかった。ね。そういう信心に私共は、腰を掛けたような信心をさせて頂いておっても、あぁいう様なおかげを、神様はもう下さろうじゃなくてから、八百俵の徳を授けるじゃなくてです。もうあぁ言うおかげを下さりよる。お徳を下さろう。
 だから折角の、あれだけのものが出来るならば、あれだけの徳を神様が下さろうとしておる、椛目全体に。ね。しかももう、あれだけいわばもう幕切れに近付いておる、ラストシーンに近付いてきた。私は先日聞かせて頂いたんだけども、利だけでも百万円以上払わんならん。大した事だと思うね月々によ。どうだろうその百万円が払えなかったら、どういう事になるだろう。総代さん方が、沢山自分の家屋敷を抵当にして、ね。そしてそれを一応は、お供えの形を持って、お供えされたけれども、ね。
 それがそれだけなら良いけれども、本当に家屋敷をお供えしてしまわなければならんような結果にでも終わったら、どういう事になるだろう。例えばこういう様な思い立ちでもです。素晴らしいことなんです。椛目で無からなければ出来まいと、私は思う。現在の椛目でです。そら利だけよ。ね。何千万と言ういわば、椛目のほうには一つも元金は払われんとよ。ね。それはまぁ今計画半ばではあるけれども、その計画が成就しなかったら、けども、今の椛目の最後の御造営は出来ないことになっている。
 とてもとても考えたらとにかく、今日も総代さんの高芝さんが見えてから、どげん考えたっちゃ晩休まれん。朝の御祈念に遅うなって済みませんけども、もうあそこの事を考えたら、もう頭がいっぱいになってから眠られん。はぁ眠られんぐらいにあろうと私は思う。けども高芝さん眠られん位のこっじゃ、おかげにならんよと私は。ね、また寝てからどん考えつきなんかには、良か考えは湧く筈はないです。まぁ私は厳しゅうそう言うたけれども、実際総代としての責任を感じたら、その位にあろうと私は思う。
 それこそ皆さんが一生懸命の献納もなさった。お供えもなさった。それでもそれは一部しか当てはまらんのだということ。勿論五カ年計画と言う、椛目の場合五カ年計画で、あの御造営が出来るなら、五ヵ年目に完了すればそれでいいのだけれどです。人間心で考えたらとてもとても、今の椛目では出来ることじゃないということ。皆んなそげんとこば考えてからしよるじゃろかと。例えば言いたくなる位にあるけれども、そういう一つの勢いと言うものが、こういう事になって行きよる。ね。
 もういよいよそれこそ、もうひやひやする様な、ね。お芝居で言うならば、どうなるだろうかという様な一番素晴らしい、良いところを今通っておる。ね。お芝居で言うなら、もう花道の七三にかかろうとしておる。あそこで見栄の一つも切らせて頂かにゃならんとこである。ね。それこそ皆がラストシーンに酔う様な、最後を飾らなければならない時にです。これは私を初め、家族を初め、信者一同の信心というのが、ここに修行が置かれなかったら大変な事だと。ね。
 御造営劇が最後がです。結局やっぱあげなこつじゃがと。ね。あんな事が出来る筈がないじゃないか。あのくらいな椛目の信者達で、出来る筈がないじゃないか。大坪の信心があの位なもんだという事になりかねないて。ね。私共もおかげ頂くなら、神様のいわばご威力と言うか、ゴヒレイと言うものをです。ここにはっきり現わさせて頂くも、頂かんもいわゆる、ここの最後のところにあるということ。
 十一月には大体成就という事である。ね。もう本当にあと僅かであるという事。ここに思いを置いてです。本気で例えば最後の仕上げの信心をなさらなければ。久留米の初代は、さぁこれからおかげをやるぞと、お徳を授けるぞと仰っただけで奮い立たれた。椛目の場合はもうここに、そのおかげは成就に近くなっておる。そのラストと言う時に当たって、何とはなしに一致団結を欠いたり、ね。
 私を中心にして家族の者の信心がなるほど、御造営の時に、家族中のものがあれだけの信心が出来た、修行が出来たという様なものがなからなければ、ね。話にして残して置かれないて。ね。このおかげ話が本当におかげ話として、残せれるものでなからなければならない。神様のお働きちゃこげな素晴らしい事だと。私は今日風呂の中で、その事を頂いてからそれを感じた。今からでも遅くない、ね。銘々がそこんところに、それぞれの信心焦点を置いて、ね。
 例えばここで私の家内が、もう十何年も前に頂いた御理解の中に、お醤油でもあの昔メンソレータムと言う小さい皮膚薬があった。あれの蓋でこう使う。あの蓋で計って醤油を使うような気持ちになれと、神様が仰った事があった。いわばお醤油でも、薬を使うごたる気持ちで使えと仰った。今日私夕食を頂きよったら、愛子がこのくらいのとには、あのマヨネーズを掛けなさると美味しかですよ。馬鹿じゃこのぐらいのものに、マヨネーズをかけて食べよるじゃろうかと私は思うた。ね。
 最近私はもう味の素も使わないことにしとる。ね。もうそんなことはね、例えばほんなら、その何千万と言う借金なんかの事から言うたらもう、えろもうなぁにもならんような事なんだ言うたら。けどもねそういう心を使うところに、意外な神様の働きを引き出すことが出来るのですもん。ね。子供達がほんなら先ず、十円ちょうだい五円ちょうだいと、ね。もう絶対ほんなら例えば、ここで五円十円要らんと言うことでも、したら五円、十円が何の端になろうか。
 けれども子供は子供なりに、そういう気持ちその気持ちを、神様は下さらん筈はないて。今日三時のおやつに枝豆が、湯がいたのが出てきておった。はぁもう私は本当に驚いた、ね。塩辛くて食べられんのだもん。ね。食べられんどころじゃない、その塩をどげな気持ちで使うたかと言うことよ。ね。一掴みの塩がほんなら何の端になるか言うならば。けれどもそれこそ醤油一滴でも、薬を使うごたる気持ちで使えと仰る神様の、お心と言うものを分からずに、ね。こういう事では今日私が言う、いわゆる幕切れがです。ラストシーンが、もうしだごだだと。今本当の信心の味をです。そういう修行の中から、分からせてもらわにゃ何時分からせて貰うか。
今日御道の新聞を見せていただきよったら、この頃か、何かあの代議士の賄賂事件なんかで、大変あの有名なった、代議士がありますよね。その人の事を祈ろうと、言う様な事が書いてあった。その人の立ち行かれるように祈ろうと。ね。例えば御造営のあぁして、責任者である、緒方さん達の非難が、最近ごうごうと、そのよい評判じゃなくてからです。もう、本当に椛目のもんの気持ちを、どうして分からんじゃろうかと、言う様な事を、耳にするのです。今こそ純信心ですよね。大工左官に至るまで。
 その一人ひとりの上にです。責任者である、いわば緒方さんなら緒方さんの事までもです、ね。皆んなが本当に心して祈らせて頂く時ではなかろうか。悪口でも言うとる時ではなか。私はそういう風に思うのである。ね。私は思うておる、ね。私なんかも大体あそこへ、ね。入らんならんとも思ってない、実を言うたら。もう実を言うたらこれでも良すぎると、私は思うておるのだ。ね。勿論だからですよ、ね。まぁここまでの話ですけれど、皆んなががっかりするだろうから言わん。申しませんけれど、ね。
 それこそ神様の顔は汚すけれども、総代皆さんがです。ね。自分達の家屋敷を抵当にして、お金を借っておられると言う様な事でもです。達にご迷惑を掛けようとは思わんと。私共があそこに移りさえしなければ良いものだ。ね。あそこにそのまま人手に渡すなら、ね。それで大体はこそっとある事なんだもん。ね。そう言う様な事は言うてもならん。思うてもならんのだけれども。例えの話なんである。私達は本当に私共親子何人かで、ね。四畳半の部屋に畳もひいては無かった。ね。
 雨が降ると親子何人のものが、お神様の畳半畳の前に、押し固まって休んだという時代がある。もう私共自分の住まいと言うものはです。あれ以上のものに、住もうとも思いませんと言うのがあの時の私の願いだった。ですからとても本当言うたら、勿体のうて行かれんと言うのである。ね。だからいよいよの時には、私共が二十年前のあれに帰ったら良いんだもん。腹はあるそう言うそれを見栄やら。何やらで私共はその見栄を張って行こうとは思わん。そこからやり直そうという私共に、まだ信心の元気がある。ね。
 けれども折角の。神様のそのお働きを無にしてしまう結果になるから、それは大変なご無礼になると言う事。ここにね本当に。椛目に本当に心ある信者。私を始めとして家族中の者がです。その信心に、本当に取り組ませて頂いて、ね。それがねものの端にもならんごたるけれども、その精進こそがです一掴みの、そんなら塩なら塩を使わせて頂く事にです。ね、天地の親神様のお恵みのものを、こうやって頂いてお粗末にでもしちゃ、相すまんというのがです。その心で薬を使うごたる心持になる事がです。
 神様を動かすのだ。ね。贅沢は敵だという様な言葉があるが。それこそ私は贅沢は、どげん贅沢してもいいと思う。神様が下さるものはいわばそれはもう、贅沢じゃないと思う。けども粗末にすることが贅沢なんだ。それが塩であろうが醤油であろうが。ね。椛目の場合は言うなら、そういう意味合いにおいてです。ね。食べ物でも何でも多すぎる悩みと言うよりも、多すぎる苦しみがあるような気がする。ね。それがどの位お粗末になっていき、ご無礼になっていくか分からん。ラストを飾らなければならん。
 いよいよ幕切れで本当に素晴らしい、見栄の一つも切らせて頂けれる様な。本当におかげ頂いて良かったと。本当に神様の素晴らしさと言うものをです。いよいよ地に現していくと言う事。天の恵みを恵みとしてです。この地上の上にそのおかげを現していくと言う事。ね。そこに今こそ焦点を置いて、まぁあと僅かである所の御造営なら御造営と言う事の為の修行がです、ね。出来とらんでしょうがお互い。そのための修行が。だから今からでも良いからそこの修行をです、仕上げる様な気持ちでさせて頂かねばならん時じゃなかろうかと、私は思う。
   どうぞ。